出張中の旅館で経験した奇妙な体験と、その後日談。

これは私がF県F郡という所に、仕事で行った時の話です。

出張はいつも車で行きます。新規開拓の仕事もあるので、色々と資料なども積み込み、ひとつの県を一週間かけて、じっくりと回ります。

そんな仕事をしていると、宿選びは大きな問題です。

その日は山の中にぽつんと一件だけ建っている旅館に泊まる事にしました。山の中とは言っても、町に比べれば山間だなと感じるだけで、近くの集落から五分ほどしか離れてはおらず、道路もしっかり舗装されていて、道幅も狭くはありません。

車で二十分ほど移動すれば、ビジネスホテルもある隣の市に着くのですが、毎日のように地方の汚く狭いビジネスホテルで眠り、旨くもない定食屋で夕食を食べるというのは、本当に味気ないものです。もちろんお金を出せば、地方でもきれいなホテルと美味しい食事は楽しめます。けれど出張の多い会社員の方なら頷いてもらえると思うのですが、いくら会社の方から出張費と手当てが出たとしても、そんな贅沢はできません。普通のホテルの宿泊代に食事代、それにビールを一本くらい飲んでしまうと、割に合わない事も多いのです。

それに比べると多少さびれてはいても、食事つき温泉旅館の方が格安でお得感があります。旅館は部屋も広いし、お風呂も広い。食事もそこそこのものが出てきます。なので出張の時は可能な限り、近くの格安温泉旅館をネットで調べて、泊まるようにしていました。

その旅館も、もちろん食事つきで、温泉もあり、何よりも値段が安かったのです。

家族経営の小さな旅館らしく、家族の住む母屋とは別に離れがあり、そこに客室と温泉があります。格安なので立派ではありませんが、部屋はまあまあきれいです。食事も豪華ではありませんが、地元の食材を使ったもので、それなりに楽しめました。

あとはゆっくり温泉につかり、部屋に戻って寝るだけです。

運転疲れもあったのか、私はすぐ眠りについたのですが、夜中になって外から妙な音がするので目が覚めました。

それはザッザッザッザッと規則的な音で、砂利の庭を箒ででも掃くような感じのものです。

旅館の人がまだ何か仕事をしているのだろうか、と思ったのですが、その音がだんだん部屋の方に近づいてくるにつれて、何かがおかしいと思い、私は起き上がろうとしました。

けれども金縛りにあって、体が思うように動かないのです。

やがてザッザッザッザッという音は、部屋の前から響いてきます。そして次の瞬間には、いきなり枕元の右側から聞こえるようになりました。

私は恐る恐る片目を開いてみました。見えたのはいくつもの足でした。

足はいち、に、いち、にのリズムで動いています。ザッザッザッザッというのは行進する際に聞こえる音だったのです。

その足には戦争中に兵隊が巻いていたゲートル(巻き脚絆)が見えます。祖父が太平洋戦争の時に陸軍におり、子どもの頃、同じようなものを見せてもらっていたので、記憶の片隅に残っていたのです。

ゆっくり視線を上に向けてみましたが、足より上は何も見えません。

すると私はふいに右の脇腹辺りに痛みを感じました。激痛というのではありません。何か重く鈍い痛みです。

よく見ると、ゲートルを巻いた足が、次々と私の脇腹を踏みつけています。

訳が分からず、大声を出したくなりましたが、喉に栓でもしたみたいに声が出ません。

ただただ我慢していると、やがて痛みは消え、ザッザッザッザッという足音も離れて行きました。

あれは一体、何だったのだろうとずっと気になってはいたのですが、その後、特別な事もなく日々が過ぎて行いました。

ところが二か月ほどたったある日、私は激しい腹痛に襲われて、救急車で運ばれてしまいました。

医師の診断は、胆嚢炎で、大きな胆石があるとの事。翌週には手術をして、胆嚢を摘出する羽目になってしまいました。

友人は体が痛んでいたから、変な夢を見たのだろうと言っています。

そうなのか、そうでないのか、事実はわかりません。

いずれにせよ私は今も鮮明に、あの夜に見たいくつもの足を覚えています。

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